書が志向するものとは ―Ten・ten 2025に寄せて 栗本高行  横浜赤レンガ倉庫での開催が恒例となった書の合同展示「Ten・ten」は、既存の公募団体の制約から解き放たれた環境を活かして、出自や経歴が多様な作家の集結を実現してきた。また、書家以外による広義の文字や線の表現をも排除せず、21世紀という「いま・ここ」を体現する創作の自在なあり方を多角的に見せることにも意を用いてきた。展覧会のサブタイトルに「書・∞の証明」と銘打たれていることから、本年の企画構成でも、そうした自由闊達な路線の踏襲が予想される。  しかし、そもそも表現の自由自在さとは何を指し示しているのだろうか。また、現代の書に、無限大の可能性はあらかじめ保証されているのだろうか。  こんな言葉を投げかけるのも、芸術における自由の裏面には、際限のない表現の拡散という事態が貼り付いており、それが今日ほど当てはまる時代はないと思われるからだ。  すでに20世紀の後半において、アメリカの美術批評の代表的論客であるアーサー・C・ダントーが、「anything goes(何でもあり)」の局面が現代アートの世界に押し寄せているという指摘を書き記している。彼は、アンディ・ウォーホルの《ブリロの箱》が美術マーケットに登場した出来事に触発された。それは、洗剤付きタワシの商品パッケージを木材の表面に印刷して積み上げた物体を展示することで、そのまま「作品」としての資格を主張した出来事であった。ウォーホルのこうしたシニカルな身ぶりに対する批評の側からの応答として、ダントーは一連の美学的著述をものしていた側面がある。  《ブリロの箱》が象徴するような〈芸術の終焉〉現象にダントーが対峙したテクストには、「制作」と「行為」という二つの観念への分裂が美術作品の内部において生じている事態に対する、深刻な受け止めが見られる。それまで人々は、この二つの観念が美術作品を成立させる両輪であることを自明視していた。ところが、丹念な技術の重みが欠落し、アイデアとその発表行為ばかりに支えられた変哲もない物体が、自己を神聖な作品として見つめるよう要求を開始したのである。そうした重大な転換こそが、彼に現代アートに関する批評の筆を執らせた要因の一つだと言える。  筆者の見立てでは、このウォーホル問題の余波は、コンセプトが作家の手仕事に対して先行するプロセス・アートから、生成AIを活用したイメージ・メイキングの事例にまで至っている。そして、今日の美術が抱える課題の困難さは、このように表現の原理的な側面へ視線を潜らせなければ語れないほどの水準にまで到達しているのではないか、との危機意識すら抱く。  ひるがえって、現代アートの傍らにあるかぎりでの書の現場には、どんな問題が横たわっているかに思いを巡らせてみたい。その際、「anything goes」式に様々な手法がとてつもない勢いで実験・消費されていく世の中において、書家たちが芸術制作者としての自己の立脚点をどこに見出していくのかは大きな関心事である。近代を通じて書という芸術を究め尽くすために登場した多数の思考やテクニックを駆使する手つきとは別のところに、注目すべき点があるのかもしれない。また、それら全てを駆使してもなお、新しい表現への本質的な跳躍を求める社会のニーズに書が応えられるかどうかの切所に居合わせている事態を直視することも、書き手の力量の一つとして求められているはずだ。美術を取り巻く環境の変化に対して、柔軟な姿勢の提示を作家がこれほど求められる瞬間はなかったように思われる。多様な個性が集う「Ten・ten」は、書という文脈から、そうした時代の要請に明らかな答えを出すことができる貴重な枠組みだ。  書の無限大は、芸術表現の無限大に通底するのか。この疑問を検証する手がかりを、今回の展覧会が提供してくれることに期待したい。 2025年4月(美術評論家)